ジャニス・イアン「Will You Dance?」— 美しい音楽を 限りない歓びを あなたに#1


"Will You Dance?" Janis Ian
「ウィル・ユー・ダンス?」 ジャニス・イアン


XTC『イングリッシュ・セトルメント』のシリーズ・レヴューの途中だが、思いついちゃったのでしょうがない。『セトルメント』レヴューが思惑あって12月末まで続くことを鑑み、タイムリー性を考え今エントリを差し挟む。


定かな記憶はなかったのだが、吉永小百合の例のケータイのCMで流れている曲を聴いて「あ、あの人の声!『岸辺のアルバム』の人の!そう、ジャニス・イアンの!」と思って調べてみたらやはりそうだった。
それはまあ、今回のこのエントリには直接は関係ない。
今回いささか唐突に新たなシリーズ「美しい音楽を 限りない歓びを あなたに」を立ててみてまで語りたくなったのは、その流れからこの「Will You Dance?」の歌詞を人生で初めて今更ながら読んでみて、その驚くべき先鋭性に驚嘆し、また同時にその解釈の大海に独自の一石を投げ込みたくなったからだ。


この曲はおっそろしく完成度が高く、ロック/ポップ、あるいはその他、みたいなジャンル分けを超えて何のレッテルも要らない純然たる「名曲」として誰にも愛されるパワーを持つため、多くの人が「さぞ美しい歌詞を持つことだろう」と手を伸ばしてみては困惑と混乱を感じるのも想像に難くない。
そう、この曲の歌詞はおっそろしく恐ろしく、怒りに満ち、しかもそれゆえにますます人を泣かすのだ。
その恐ろしさは瞬間最大ピーク時のポール・マッカートニーやバッドフィンガーに匹敵する。


多くの人が、ヴァース1、ヴァース2の激烈な告発をそのとおりに受けとめ、だがその先、コーラス1、2、ヴァース3、ラスト・コーラスで解釈に迷うことと思う — 私だってそうだ。
だがその7、8割がたの人は、「その先」を「でもそんな世界だからこそ、個人的な喜び・幸せ・愛を大切にしていきましょうよ」式のポジティヴ方向の解釈で「乗り切ってしまって」いる、という気がしてしまう。
私はどうしてもそれがイヤだ。
だから、私は私でいわばマッカートニー・ソング的な解釈を、そこに投入せずにはいられない。


コーラス1の解釈はまだ簡単なほうだろう。
  キャヴィアと薔薇、なんて素敵にリッチでセンス良くハッピー
  ほら、わたしたちの次世代に
  どれほどわたしたちが親密か見せるのよ
ってな感じか。
それはヴァース1、2の社会性のあるシヴィアさと打って変わって、奇妙なまでに穏やかで個人的・人間的・家庭的なハッピネスの光景を感じさせる。
私にとってその「転向」の風景は、アメリカの「Ventura Highway」や中後期のP.K.ディックの苦い清涼感を、また'60年代の荒れ狂う若者革命から'70年代のミーイズム流ウェルネスへの移行を連想させる。
あえて大胆に乱暴に深読みするならば、ヴァース1、2とコーラス1の間にはアメリカ'60年代と'70年代の思潮の大きな転換と諦観があるのだ。
それはジャニス・イアン自身の、理想とヴィジョンが潰えて炭火のような静かさに落ち着くメンタルの変化にも連動していよう。


歌詞全体、したがってこの曲の姿勢全体に関わる部分、そこを取り洩らしては全てを取り洩らすことになる部分がコーラス2、「Light fantastic...」以下の部分だ。
多くの人が「to be whoring」を、そしてその後に続く部分を なんとなくテキトーに/収まりいいように/よく分からないがたいしたことでもないように 訳してそれでよし、としているように思えるのだ。
私はここのラインを、ただでさえ激烈なこの曲、最初っから最後までまったく手抜かりなく手加減なく救いなく慰めなく激烈なこの曲の中でももっとも激烈な部分だと思う。
ひとつを採ることによって他の/別の、あり得る解釈・ニュアンス・手掛かりがぼやけ逃げていくのを怖れず、まず訳の一例を示そう — すべてを考え併せた後、反駁なり別論なりがあればどうぞ。

  踊らない?踊らない?
  朝の光の中、なんてファンタスティックな
  身を売り渡すのはなんてロマンティックなこと
  えっ?うんざりする、って?
  でも、あなたや私が滅び去ったら、他の誰が残るって言うの?

そう、思いっきり意訳、なんなら超訳だ。
だが、そうすることで活きてくる — 新たな相を帯びて立ち上がってくる解釈の全体像を感じてほしい。
「you and I」はこの場合、男と女、夫と妻、もしくは子を持つか、持つ予定のあるカップルを(少なくともイメージとしては)指しているのではなかったか。
そうであれば「to be whoring」は、比喩的に、男にも女にも — 「わたしたち」2人ともにできることと考えてみてはどうだろうか。
私はそれを
官憲であれ、「勝者」側であれ、腐り切った世の中であれ、ヴァース1、ヴァース2が痛烈に告発し嘲笑し嘆き絶望してさよならを言ったはずのものに、手のひら返しでおもねり「身を売り渡す」こと
だと解釈し、またその解釈でこそ一貫性のある激烈さが保たれると感じる。
  ああ、ひどいひどい、腐り切ってとり澄ました
  善も悪も混ざり切ったどうしようもない世の中ね
  でもだからと言って、じゃあ正義の闘志として雄々しく闘って死ねばいいの?
  いいえ、そんなのはご免だわ、
  そんなことしたって無駄だと散々見て知ってきたじゃない?
  ああ、もうどうでもいい、生き延びられさえすればどうでもいいわ
  ねえ、そうじゃない?ねえ、死んでどうなるの?
  正義を通してどうなるっていうの!?
  悪人や偽善者が大手を振って喜色満面で生きているってのに、
  わたしたちだけが死んで、それでいったいどうだっていうの!?
という怒りと諦観の裏返しといった感じだ。
あくまで私の、ごく私的な勝手な拡大解釈が入っているものの、ヴァース1、2からコーラス1、2へ、唐突な、そして一見ポジティヴと言えなくもない「姿勢・ムードの翻し」が見られるのを、むしろ順当に無理なく繋ぐ一貫性ある筋があるとすれば、こういう怒りの裏返しとしての厭世観がそうじゃないかと思うのだ。


そうなると、「Strangers in the light」以下、ラスト・コーラスの「Take a chance on romance and a big surprise」までの、これまた一見前向きな、そして多くの人が前向きで高らかな呼びかけのように訳している部分が、やはり厭世観に裏打ちされた、むしろ自暴自棄で刹那主義的なやけのやんぱちな叫びにも取れる。
どうだろう?
実を言うと、こうまで言っておきながら私自身、そうでなくあってほしい、と感じる。
最後くらいは超越的な高みからのギリギリでなけなしながら力強いポジティヴィティに達して終わってほしいと感じてしまうのだ。


だからこそヴァース3が難しい。
ここでまたシーンの、そして話者の視点の大きな転換があるようなのだ。
夜の闇の中で血を流す誰かと、灯りの内の見知らぬ人たち、その間の連関が見え辛い。
それぞれに会釈を交わし
ちらっと瞥見するだけの視線にあっては
それぞれの人生は閃いては消えるくらいのものであり
人はその人生の主人公であろうが、他の人にとってのその人は過ぎ去る風景の一部でしかない。
「greeting」「flashing」「dashing」に過剰な意味をこめずむしろニュートラルに訳せばそんな風にすんなりと通る情景/心情描写になるわけだが、やはり夜の闇の中で血を流す誰かとの関連性は見え辛いのだ。
苦しむ者と、その傍らを知らぬげに通り過ぎるだけの者、それが当然の風景になったことを対比によって描写している — そう、それはそれで成立するし、少なくとも美しげな光景と解釈したり、'60年代的カウンター・カルチャーの隠語・俗語を持ち出してきたりするよりは、すんなりと普遍的に「伝わる」ものになると思う。
ただそれでも、「a sudden meeting」が謎のまま取り残されるのだが。


ソングライターは、歌詞の全体像を常に理知的に制御しているわけでも制御できるわけでもない。
とある語彙とイメジャリーが、ふいっと自分でも説明できない理由から現れることもままあり、このヴァース3でのシーン転換もジャニス・イアンだけに判る、あるいは彼女自身にも判らない理由で、必然なのかもしれない。
いずれにせよ、私は私自身の解釈体系の流れにおいて、このラインにポジティヴィティへの劇的な飛躍点を見出だすことはできない。
関係あるかないか、『ミスター・グッドバーを探して(1977年)』のような物哀しい孤独の風景がせいぜいで浮かぶだけであり、そこに愛と幸福を予感させるすんばらしい出逢いのようなものを見出だそうとするのは不謹慎なまでのこじつけとしか感じられないのだ。


NHKの『アンジェラ・アキのSONGBOOK in English』という番組でジャニス・イアンはこの曲について「これをアルバムに入れるなんてクレイジー、と音楽仲間もプロデューサーも反対した(大意)」と語っている。
もちろん放送禁止用語の問題もあるかもしれないが、それ以上にその激烈で救いのない歌詞全体の姿勢にこそ危惧を抱いてのことだったろう — 「誰もそんないかれた(weird)歌は聴きたがらないよ」と。
もはやボブ・ディランもザ・ビートルズも経験した後の1977年の世界で、それほどまでにウィアードな歌とはどんなものだろう?
それこそ、'60年代的な愛と平和の革命の夢にさえ毒を吐き茶々を入れ冷笑しそっと身を引いて背中を向けるような、頑なで意固地なまでに真実を語ろうとするような歌ではなかろうか。
あるいは、その敗北を苦々しく認めるような。


ひいきの引き倒し、過剰な思い入れを承知で、私はこの曲をそういう曲として、マッカートニー型の「恐ろしい真実とそれゆえの祈り」ソングとして愛する。
「踊りましょうよ?恋とびっくり大逆転に賭けてみようよ」というラスト・コーラスが、サヴァイヴァー的なけなしポジティヴィティに基づくものであろうと、やけのやんぱちの自嘲的冷笑的泣き笑いであろうと、曲全体がもたらす異様な感動は少しも損なわれるものではないのだ。


 


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