エヴリシング・バット・ザ・ガール「Each And Every One」 — 美しい音楽を 限りない歓びを あなたに#7


"Each And Every One" Everything But The Girl
「イーチ・アンド・エヴリ・ワン」 エヴリシング・バット・ザ・ガール


和製英語で「ネオ・アコ」と粗雑に無責任に総称される、'70年代末/'80年代初頭に端を発するバンド/プロジェクトの多くは、その一見優しげだったり柔らかだったり爽やかだったりする姿に反して、パンクの順当で誠実な継承者であることがほとんどだ。代表的かつ典型的な例を僅少ながらも挙げるなら、ザ・ドゥルッティ・コラムやアズテク・カメラがピンと来やすいだろう。この2つ(もしくは2人)の音楽が美しかったり静謐だったりするのはパンクと無縁だったからではない。パンクな精神がパンク自身に、自分や自分の怒りや時代や時代精神に向かった時、何が起こるか — その精錬や老成や潔癖への意志はパンクがパンクに向けたパンキズムなのだった。



ジャズ、ボサ・ノヴァ、バカラック・サウンドを多分に感じさせるエヴリシング・バット・ザ・ガールというデュオは明らかに、凡百の形骸化したスピリットなきパンクへの異議申し立てを為すパンキズムの好例だ。如実にフェミニスティックであり、セクシズム・マッチョイズムへの告発・抵抗に清澄で静謐にも研ぎすまされたパンクの最上級の衣鉢が見える。その力強さと鋭さは、ブランコ・イ・ネグロからの第1弾シングルにしてファースト・アルバム『エデン』の1曲目:「イーチ・アンド・エヴリ・ワン」に典型的に表れている。



おそらくはベン・ワット自身のアレンジによる簡素にもバカラック風味の、なんならオシャレで洗練されたホーン・セクションのイントロに続くは、最小セットのボサ・ノヴァ・バンドのアコースティックな抑えた演奏。低く深くハスキーなトレイシー・ソーンのジャジーで気怠げな心地よいヴォーカル。だが、そこで唄われる三行半プロテストのなんと辛辣かつ鋭利なことか。「避難所を差し出すけどその代価は高すぎて」「もう脱けられたと思いきやどいつもこいつもまた同じことを」「親切めかしてもただの支配の手段」「装いはちがえどまた同じこと」— 怒れる若きロックの闘士:ポール・ウェラーを唸らせザ・スタイル・カウンシルの道をも決定付けたであろう「パンクの次」が、さらっと事もなげに示されている。



「いずれ若手か素人か」ってな、ジャンル・プロパーからは程遠かろう寄せ集めミュージシャンたちのなんちゃってボサ・ノヴァが、おそろしく緊密に熟達と老練を模して危うげなところがない。コンガ、ボンゴ、ヴィブラスラップのパーカッション群とダブル・べースが抑えの利いた、しかし必要充分なリラクシングなリズム空間を生み、時に煽りにも廻る。ワットの指弾きジャズ・ギターは執拗なまでにストイックにパーカッシヴなプレイに留まり、ディストーションでぶちかまし型への静かなアンチ・テーゼとなっている。ソロとエンディングで少しく激すフリューゲルホルンにはむしろ泣いた後のような清々しさと諦観と無常が薫るようだ。



怒りの正義と糾弾の波が狂躁と破壊と内破の荒れ野原を残すのを見た時、叡智と気骨のある者は、狂躁から離れ静かな内省の日々に己のかけがえのない宝石を磨く。荒ぶる猛りに疲れた者の休息時には、拒んでいた古典や熟達や洗練が聡き先輩として優しく微笑みかけることがある。時代を文脈をムーヴメントを超える真と美のエッセンスがポスト・パンク期のエヴリシング・バット・ザ・ガールに降り、その音楽はまた30年50年の時を経ても新たなリスナーにタイムレスな真と美を提示するだろう。



 


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